興宣大院君は、李氏朝鮮末期の王族、政治家。字は「時伯」。号は「石坡」、「海東居士」。日本では、単に「大院君」と称される。本名は李 昰応。南延君の四男。母は郡夫人驪興閔氏。高宗の …興宣大院君は、李氏朝鮮末期の王族、政治家。字は「時伯」。号は「石坡」、「海東居士」。日本では、単に「大院君」と称される。本名は李 昰応。南延君の四男。母は郡夫人驪興閔氏。高宗の実父。 1864年1月から1873年11月まで、高宗の実父として朝鮮の国政を司り、外戚の専横排除に関連した古い体制打破を目的とした、具体的には有能な人材の登用、官制改革の実施、小作人制度の撤廃による農地の平等分与などを目指した。一方、1866年にフランス人神父9名やカトリック信者約8,000名を捕らえて処刑するなど、キリスト教を徹底して弾圧、これを機に同年江華島へ侵攻したフランス艦隊を撃退している。更に、通商を求めて大同江を遡上してきたアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号を焼き払い、鎖国をあくまで堅持しようとした。また外戚の専横排除を目的に閔妃を高宗の王妃にするが、かえって国政から追放された。乙未事変で閔妃が暗殺された後も政治の舞台に復帰することなく、1898年に79歳で死去した。