WEBモンゴル(Meng gu). 『清朝支配下からの独立』. 馬場 美貴子. 地図を見ればわかるように、現在のモンゴル民族の居住地は国境によって大きく3つに分断されている。. 北から順に、ロシア連邦内のブリヤート共和国、独立国であるモンゴル国(いわゆる外 ...
WEB一五八三(明・寓暦二)年、建州女直すなわちマンジユ巳宮古(満洲)五部の覇権争奪戦に名乗りをあげたヌルハチ ZRZS(一五五九 l 二ハ二六)は、一代のうちに全ジユシェン』忌 2(女同県・女直)諸部を統てその覇業は第二代ホンタ ...
WEB345 17世紀末、清朝の対モンゴル政策 ―― 康煕帝の五台山改革を中心に ―― 新藤篤史 はじめに 17世紀末、清朝と西モンゴル・ジュンガルとの間で紛争が勃発した。同時期、 康煕帝は五台山の改革に着手する。ジュンガルとの戦いに代表される「清朝
WEB世界史の窓 appendix 用語とヒント 藩部 清朝が征服地とした新たな領土を支配するための機構。中央では理藩院が統括した。 清朝は、中国本土と満州以外の地の、モンゴル人、 青海 、チベット、新疆(ウイグル)を藩部とし、中央官庁として理藩院をもうけて統治した。
WEBどまらずモンゴル 人・漢人・朝鮮人、 さらにはロシア 人・チベット人など も含む多民族組織 でもあった。だが、 ... 八旗はマンジュ語でジャクン=グサ(jakūn gūsa)、すなわち「八つのグサ」という。グサとは集団、 軍団という意味 ...
WEBApr 29, 2024 · 光緒三十四年(1908年)には清は22省と、チベット・外モンゴル・内モンゴル・青海などの地方となった。モンゴルとチベットも省にする案があったがモンゴルは独立し、チベットは支配強化のため侵攻中に辛亥革命が勃発し、清が崩壊したため
WEB序章では、この点を指摘して、モンゴルを中心に17世紀の中央ユーラシア東部を取り上げる意義を強調するとともに、帝国時代と清朝時代の狭間にあって史料が僅少であることから研究が進んでいないこと、それが近年の文書資料の公開の進展と新たな研究 ...
WEB不諸清語,何 以辮事。ここで乾隆帝は,理藩院の「満洲官」,すなわち満洲旗人の官員(満洲官員) が処理するのは「満洲事務」であり,満洲語能力ができなくて何の仕事がで きるのかと叱責しているが,モ ンゴル語能力の要否やモンゴル事務
WEB満洲皇室からモンゴルへ嫁いだ人の方が多いため、彼女らが漠北モンゴル王公の家で生んだ漠北モンゴルに属するモンゴル・満洲混血の末裔は、その中の主要な部分を占める。漠北モンゴルに嫁いだ娘の中には、満漢混血、すなわち満洲
WEB内属モンゴルとは具体的に、現在の内モンゴル自治区 領内にあるチャハル、帰化城トゥメド、フルンボイルの新バルガと旧バルガ、現在のモン ゴル国領内にあるホブドのウールド、ミャンガドなどを指す。