WEBしかし両者の反応は冷たく、少弐貞経は堅粕(福岡市博多区・東区)で菊池の使者を斬り、大友貞宗も使者を斬ろうとして逃走された。武時は鎮西探題に押し寄せ、探題配下と合戦となるが敗れ、子の菊池頼隆以下菊池一族と共に討たれ
WEB1333年3月13日、肥後国菊池郡を本領とする国人である菊池武時は博多に置かれた鎌倉幕府の行政府「鎮西探題」を攻撃しました。 時は幕末、鎌倉幕府を倒すべく後醍醐天皇が討幕に向けた活動を続けていた時代、各地の国人へと幕府を倒すべく決起を促す綸旨を発します。 菊池武時も綸旨を受けた一人で、同じ肥後国の国人である阿蘇惟直とともに博 …
WEB概要. 文永 11年( 1274年 )、 弘安 4年( 1281年 )の 元寇 の後、 弘安 9年( 1286年 )元寇後に訴訟が急増した九州に 鎮西奉行 の後身として、 少弐氏 ・ 大友氏 ・ 宇都宮氏 ・ 渋谷氏 など有力守護四名を奉行として、鎌倉、 六波羅探題 にかわる合議制の裁判所として 鎮西談議所 が博多に設置された。 その後、鎮西談議所の後身として、永仁元 …
WEB鎮西探題. デジタル大辞泉 「鎮西探題」の意味・読み・例文・類語. ちんぜい‐たんだい【鎮西探題】 鎌倉幕府 の職名。 永仁元年(1293) 博多 に置かれ、 九州 の 御家人 を統轄して、沿海防備・ 裁判 ・一般政務をつかさどった。 鎌倉幕府 滅亡 とともに 消滅 。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例. 精選版 日本国語大辞典 「鎮西探題」の意味・ …
WEB10代菊池武房の孫。11代である兄時隆の死去により家督を継ぐこととなった。鎌倉幕府討伐の機運が高まっている時代であり、武時は倒幕派につき九州における鎌倉政権の一掃を謀る。1333年(元弘3年)、幕府下にあった鎮西探題を攻めよう
WEB鎌倉末期の武将。隆盛の子。肥後守。法名真空寂阿。1333年初め,伯耆船上山に挙兵した後醍醐天皇のもとに参じ,3月,鎮西探題北条英時を攻めた。しかし,少弐貞経,大友貞宗らの変心によって,武時はそこに敗死した。武時の死後
WEB十二代 菊池武時 (1292年〜1333年) 2020年08月20日. 武房の孫。 時隆の死去によりその弟である武時が十二代の家督を継ぐこととなった。 鎌倉幕府 (北条氏)の支配が強まり、蒙古襲来に対する恩賞などの問題で御家人の不満が高まっていくなか、九州においては鎮西探題が置かれ、その探題職にも北条氏が就くこととなった。 ときに、後嵯峨上皇以降の …
WEB武時は鎮西探題に押し寄せ、探題配下と合戦となるが敗れ、子の菊池頼隆以下菊池一族と共に打たれた。 享年42。 一族200名あまりの首が犬射馬場に懸けられた。 その後の鎮西探題
WEB後醍醐天皇の倒幕の呼びかけに応じた肥後国(ひごのくに)(熊本県)の菊池武時(きくちたけとき)が鎮西探題を襲撃します。 この時の菊池氏の挙兵は失敗しますが、幕府が滅んだ3日後の5月25日、大宰少弐貞経(だざいしょうにさだつね)・大友貞宗(おおどもさだむね)・島津貞久(しまづさだひさ)等が挙兵し、鎮西探題に攻め寄せ探題北条英 …
WEB元弘 3年/ 正慶 2年( 1333年 )3月11日、 博多 に到着した武時は鎮西探題に出仕したが、 侍所 から遅参を非難され、口論となった。 13日、武時は挙兵し、博多の所々に火をつけて焼き払った。 そして 少弐貞経 、 大友貞宗 らに使者を使わし、 隠岐 を脱出した 後醍醐天皇 の 綸旨 を受けているので同調するように告げる。 しかし両者の反応は冷たく、少 …