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  1. メアリ2世 - 世界史の窓

  2. ジェームズ2世 - 世界史の窓

  3. ウィレム3世/ウィリアム3世 - 世界史の窓

  4. People also ask
    ジェームズ2世はフランス人を母とし、フランスで養育された熱烈なカトリック教徒であったので、兄以上の反動的な政策をとった。 モンマス公の反乱(ジェームズ2世の即位に反対し、王位継承を主張したチャールズ2世の庶子モンマス公の反乱)を口実に常備軍を設置し、カトリック教徒の文武官任用を復活( 審査法 を事実上廃止)させ、1687年には信仰自由宣言を発し、カトリック教徒の聖職就任を許可した。 翌年、礼拝で信仰自由宣言書を2度読むことを強制、反対したカンタベリー大司教ら7名を逮捕するなど、国民の支持を失った。 ジェームズ2世には娘が二人いた。 二人とも父と違ってプロテスタントの国教会信者となった。 長女 メアリ はオランダの ウィレム3世 に嫁ぎ、妹の アン は独身(後にデンマークの王族と結婚)だった。
    相対的にジェームズ2世の評価は低く、「カトリック 絶対王政 を布こうとした専制君主」という歴史上の悪役であった。 このような歴史観は名誉革命直後からイングランド人の間で主流であり、 フランス革命 の影響もあってむしろ強化された。 ウィリアム3世=英雄・ジェームズ2世=敵役という ホイッグ史観 は 20世紀 中盤まで、ほとんど批判を受けずに継承されてきた。 ジェームズに関する伝記で最初のものは 1948年 、史家フランシス・ターナーによるものである。 これは入念に調べ上げられているが、ほぼホイッグ史観の路線を踏襲した否定的見解に基づく伝記であった。 1970年代 に起こった 歴史修正主義 の隆盛は、 歴史学 を物語から学問に押し上げようとする動きでもあった。
    ジェームズ2世を逃がしたのは、かつてはウィリアム3世の度量の広さゆえであるとも言われたが、実際はジェームズ2世の人気を回復させないためであった。 ^ 仮議会は 王政復古 ( 1660年 )の時も召集されているが( 1660年仮議会 )、双方ともどのような手続・法的根拠によって仮議会が召集されたのか明らかになっていない。
    ミラーは、ジェームズ2世は絶対王政に憧れている面があったものの、それを実現する計画も努力もほとんどなく、むしろイングランドで信仰の自由──カトリックも含めて──を実現しようとしたにすぎない、と指摘した。 ミラーの伝記は従来のジェームズ2世観からすれば革命的な変化であり、 ネオ=ホイッグ とよばれる保守的な歴史家から批判が集中した。 同様に伝記を出版したウィリアム・スペックは、ミラーの指摘を「まったく信用に値しない(ultimately unconvincing)」とこき下ろし、一方ミラーも「ビル・スペックは300年前と同じようなことをいまだに主張している」と応じている。
  5. ジェームズ2世(イングランド王) - 世界の歴史まっぷ