Web大国 実頼 (おおくに さねより)は、 安土桃山時代 から 江戸時代 前期にかけての 武将 。 上杉氏 の家臣。 直江兼続 の弟に当たる。 経歴. 永禄 5年( 1562年 )、 樋口兼豊 の次男として誕生。 上杉謙信 死後の 御館の乱 では 上杉景勝 方として戦う。 戦後の 天正 10年( 1582年 )、景勝の命により 天神山城 主 小国重頼 の養子となって 小国氏 の家督を相 …
WebMar 15, 2024 · 直江兼続と大国実頼が仕えた上杉家の居城・春日山城跡. 戦国時代には、互いに手を携えながら活躍してきた兄弟が何組も登場します。 有名なのは豊臣秀吉と羽柴秀長ですが、上杉景勝に仕えた直江兼続と大国実頼も、上杉家を守るため、兄弟で力を合わせながら粉骨砕身、努力してきました。 そんな兼続と実頼の絆は、関ケ原の合戦によっ …
WebMar 26, 2024 · 兼続は弟の大国実頼を作事奉行に任命すると、3月から大規模な工事がはじまった。 12万もの人夫が動員されたといわれており、会津・仙道・佐渡・庄内・長井などの広い地域から集められた。 12万という数字は非常に疑わしいが、それくらい大規模な動員が行われたということだろう。 築城の計画は新たに城下町を作り、神指村など13ヵ …
WebOct 12, 2022 · このとき兼続22歳であった。 以後、上杉家は兼続の執政体制となる。 兼豊の二男・樋口与七実頼(さねより)は天神山城に婿入り。
Web大国実頼. 直江兼続の弟。. 上杉景勝の命により小国家を継ぎ後に大国と改名する。. 兄兼続と共に数々の戦に参戦し活躍した。. 能書、連歌も堪能だったと言われる。. 上杉外交の一躍も担う。. 詳しい武将の紹介. ・ 上杉景勝. ・ 伊達政宗.
WebJan 3, 2024 · 上杉謙信 死後の 御館の乱 では 上杉景勝 方として戦う。 戦後の 天正 10年( 1582年 )、景勝の命により 天神山城 主 小国重頼 の養子となって 小国氏 の家督を相続した。 高野山 の『越後国供養帳』によると、実頼は天正13年( 1585年 )8月18日に亡くなった義母(重頼室)の供養を依頼している。 天正14年( 1586年 )、 新発田重家 討伐 …
Web2023/09/22. 1600 (慶長5)年2月10日、上杉景勝(うえすぎかげかつ)は神指城(こうざしじょう・会津若松市神指町)の築城を直江兼続(なおえかねつぐ)に命じました。 兼続は、弟の大国実頼(おおくにさねより)を作事奉行に任命すると、3月から大規模な工事を開始。 その計画は、神指村など13カ所の村々を強制的に移転させ、新しく城下町を作ると …
WebApr 1, 2023 · 阿虎は実頼出奔後に兼続が預かっていました。 また、同年に正信の取り成しで10万石分の軍役が免除されるなど、政重の存在は上杉家に大きく貢献することになるのです。 なお、兼続には景明という実子と上杉家重臣の本庄繁長の三男長房という養子がいました。 長房は直江与次郎と名乗っていましたが、景明が生まれると本庄家に戻され …
Web基本的に実頼は京都の上杉屋敷に留まり、中央での政務や豊臣家と上杉家の渡し役に徹し、さらに諸大名との関係を円滑にする為に能書、連歌などの文化を身に着け村上城(新潟県村上市)9千石を給うまでになっています。 慶長3年(1598)、上杉景勝が 会津鶴ヶ城 120万石に移封に伴い会津南山地方2万4千3百石が与えられ家中では上杉景勝、直江兼続に次 …
Web与板城は、上杉景勝の執政として活躍した直江兼続の居城である。 もともと直江氏は本与板城を本拠としていたが、信綱の代に与板城へ拠点を移したと考えられる。 本与板城跡. 本与板城は、もともと守護上杉氏の重臣である飯沼氏の居城といわれ、天文年間に長尾景虎(のちの上杉謙信)の命を受けた直江が、飯沼頼清を討伐して本与板城に入ったとい …