ウェブ2009年3月31日 · 淀殿の妹で、徳川秀忠の正室である於江与の方。 崇源院(すうげんいん、天正元年〔1573年〕- 寛永3年9月15日〔1626年11月3日〕)は、天正時代から江戸時代初期の女性。諱は江/小督(おごう)もしくは江与(えよ)とされるが、再婚時に改名した可能性もあり、どの名が正しいのかは確定できて ...
ウェブデジタル大辞泉 - 淀君の用語解説 - [1567~1615]豊臣秀吉の側室。名は茶々。父は浅井長政。母は織田信長の妹小谷の方。浅井氏滅亡後、柴田勝家に嫁いだ母とともに越前に移り、柴田氏滅亡後は秀吉の保護を受け、愛妾となった。山城の淀城に住み、長男鶴松・次男秀頼を産んで権...
ウェブ2020年8月25日 · さて徳川家康の継室の朝日姫君や於江与君が蔑称とか遊女で、それを堂々と徳川家が公認していたのでしょうか。ありえないことはすぐにわかります。 朝日姫君や於江与君の特徴は、次の2点です。 ・形式上二人目の正妻である。 ・家康の
ウェブ2011年11月8日 · それから「徳川幕府家譜」の編纂は明治2年で幕末ではありません。 「徳川幕府家譜」の編纂は明治政府の指示で行われているので「蔑称」として「朝日君」「於江与君」を使用しているのです。 小和田哲男の「淀君」の解釈は
ウェブ2006年3月25日 · 茶々(淀君)・初・於江与(徳川秀忠夫人)の3人である。 この頃、秀吉は茶々(のちの淀君)に執心していた。茶々は、妹の初が京極高次を慕っていることを知り、秀吉に無理を言って二人の結婚を認めさせた。 京極高次は妻が淀君 ...
ウェブ於江与(浅井江) 09/04/10 二代将軍・秀忠の正室(1573〜1615) 浅井長政とお市の三女。姉に淀君。千姫(秀頼の正室)、 家光(三代将軍)、忠長、和子(後水尾天皇中宮)を産む。 進む 戻る
ウェブお江与の方(おえよのかた) 1573~1626. 崇源院。. 浅井長政とお市の方の間の娘で、淀君の妹。. 徳川秀忠の正室となり、家光を生んだ。. 写真は高野山奥の院にある崇源院の墓で、東京都港区の増上寺にも彼女の墓がある。. 法名は「崇源院昌誉和興仁清 ...
ウェブ於江与 の例文集 - 用例.jp - 秀忠の御台所は於江与の方といって、近江小谷城主・浅井備前守の息女。三代将軍には普通なら長男・家光になるはすが、あざの風貌とどもりという体から、秀忠と妻・崇源院於江与に疎まれていた。
ウェブ2021年10月1日 · 淀君が創建し、 焼失の後、 淀君の妹・崇源院 (スウゲンイン=徳川2代将軍秀忠 の夫人 ・於江与(オエヨ))によって再建されたのは、 養源院 である。 近江の小谷城主・浅井長政 と父・久政など一族は天正元年、 信長に攻められ自刃した。
ウェブ補足 浅井長政との間にもうけた三人の娘、茶々・於初・於江は後に、 淀君(豊臣秀吉側室)・常高院(京極高次室)・崇源院(徳川秀忠室)となることは著名である。 男子万福丸は処刑。